斐太高校に関係した名称について

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【飛騨国名由来の竜馬石---大野郡清見村】
伝説によると、神代の昔、竜馬が天から降りて石になったとされます。

「斐太」という校名

「飛騨」と一般に表すようになったのは,和銅年間以降のことでしょうか。「続日本紀」大宝2年(702年)の頃には「飛騨国献神馬,大赦天下・・・」とあり,朝廷は之を大瑞としました。和銅6年(713年)行政地名表記の改正により,好き字をつけ,以後「飛騨」に一定したと言われます。 なお「日本書紀」では「飛騨」,それ以前の表記として「万葉集」では「斐太」,国造本紀・賦役令では「斐陀」とあります。 本校の校名は「万葉集」の「斐太」に拠るものです。

斐太人之真木流云爾布乃河事者雖通船曽不通
ひだびとのまきながすといふにふのかは
ことはかよへどふねぞかよはぬ

云云物者不念斐太人乃打墨縄之直一道二
かにかくにものはおもはじひだびとの
うつすみなはのただひとみちに

白檀斐太乃細江之菅鳥乃妹爾恋哉寝宿金鶴
しらまゆみひだのほそえのすがとりの
いもにこふれかいをねかねつる

-万葉集-

「有斐」という文字

岐阜県立斐太高等学校の同窓会を有斐会といいます。
斐太中学同窓会の発行による「螢窓餘影」第1号が発刊されたのは明治29年ですが、34年になると「有斐」と改められ、発行者も前年に発足した岐阜県斐太中学校友会(職員・生徒・同窓生有志で組織した同窓会に変わる組織で、主に部活動がその中心的活動)となりました。有斐は当時の漢文の山本秀雄先生の命名であり詩経から引用されたもののようです。

◎有斐=「斐」を『詩経』には「匪」に作る。
斐が正字、匪は仮借である。 「斐」は美しい光彩のあるさま。「有」は「詩経」で、状態をたたえていう時に用いた歌語。

【原文】 『大學經一章 傳之三章』より
詩云、瞻彼淇澳、僴竹猗猗。有斐君子、如切如磋、如琢如磨。瑟兮僴兮、赫兮喧兮。有斐君子、終不可諠兮。如琢如磨者、自脩也。瑟兮僴兮者、恂慄也。如切如磋者、道學也。赫兮喧兮者、威儀也。有斐君子、終不可諠兮者、道盛徳至善、民之不能忘也。

【訳】
詩には、「あの淇水(きすい)の岸辺の方を見やれば、緑の竹が美しく生え茂っている。その竹のように徳のあやに美しい君子は、さながら骨や角のあら細工をしてはヤスリをかけるように、玉や石のあら削りをしては磨きをかけるように、いよいよその徳を修めなさる。されば、その徳はうやうやしさに満ち、雅(みやび)やかに整い、輝き出、照りわたる。徳のあやに美しい君子は、いつまでも忘れられない。」とある。ここに「あら細工をしてはヤスリをかけるようになさる」とあるのは、君子がつとめて善を学んでいることを言っているのである。「あら削りをしては磨きをかけるようになさる」とあるのは、君子が自分自身を大切に真心をもって修めていることを言っているのである。「うやうやしさに満ち、雅(みやび)やかに整う」とあるのは、君子がかくて修めた徳を行うにあたって慎しみ深くすることを言っているのである。「輝き出、照りわたる」とあるのは、君子の行いが尊厳な法度に合った徳行と成ったことを言うのである。
「徳のあやに美しい君子は、いつまでも忘れられない」とあるのは、ついに君子が盛大な徳を備え、最も完全な善をもとにして物事に処するので、人民が君子を慕って忘れることができないことを言っているのである。

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【高山市内からの城山】
かつてはこの付近に校舎がありました。城山の山上には、飛騨が天領になるまでの江戸時代初期、3階建て望楼(天主)をいただく高山城がありました。高山城は、ときの飛騨領主、金森長近が天正16年(1588)から16年かけて築城したお城です。館と天主が連結した典型的な平山城で、日本で5つとないほど見事であったといいます。

 

巴城ヶ丘とは

この言葉の由来は,本校の草創期までさかのぼります。創立当初の校舎は現在の城山にありましたが,この城山を「高くそそり立つ山」になぞらえて「巴山」と呼ぶ,風流文人の呼称がありました。
明治31年に現在地に校舎が移転してからも,創立時の気概を継承する意識から現在の裏山を「巴城ヶ丘」と呼ぶようになりました(昭和10年頃)。本来城山の別称であったものが,校舎の移転にともなってその名前まで移転させて使用したのです。以来,「巴城ヶ丘」「巴陵」という言葉を,この校地一帯に使用するようになりました。

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