斐太高校の伝統として長く伝わる『白線流し』についてご紹介します。
白線流しとは
白線流し・・・。
例年3月1日の正午頃、卒業証書授与式後に行われる旧制中学以来の伝統行事。
学校前 を流れる大八賀川をはさんで校舎側に在校生が、対岸には卒業生が思い出深い学び舎に向かって立ち、互いに惜別の歌を歌いながら感慨にふけります。そのとき、卒業生らは制帽の白線とセーラー服のネクタイを1本に結び合わせて永遠の友情を誓いながら、早春の川面に3年間のなつかしい思いを込めて流すのです。
白線は川を汚すことにならないように、下流で在校生の手によって拾い上げられます。約半世紀にわ たって続けられてきた伝統ある行事です。
現在は、男女共学で、学帽の購入も自由になったため、男子の白線は入学時に生徒会からプレゼントされたものを使っています。
白線流しの歴史
1.揺籃期(昭和13年頃~昭和19年頃)
その始まりは定かではありませんが、旧制岐阜県斐太中学校第50回卒業生の前後に自然発生的に行われるようになったとされています。その頃はまだ、卒業式の日に合崎橋や鍛冶橋で数人が各自ばらばらに白線を取って川に流したというようなものでした.そうしているうちに、だんだん大勢の卒業生が白線を流すようになり、「白線流し」という行事に発展していきました。
2.確立期(昭和19年頃~昭和32年頃)
昭和17、8年頃から「巴城ケ丘別離の歌」が歌われるようになりました。この曲は旧制岐阜県斐太中学校第57回卒業生の河内敏明氏(名古屋市在住)の作詞・作曲によるもので、当時は楽譜もなく、口伝で歌い継がれてきました。しかしこの頃でも全員が1本の白線を結ぶには至らず、親しいもの同士でそれぞれ結び合うような形でした。この頃はまだ「送別歌」というものはなく、在校生は「蒙古放浪歌」という大正時代の流行歌を歌って送りました。しかし楽譜などは見当たらず、節もまちまちで、当時の在校生が歌った節回しも部分的には旧制斐太中学校独自のものでした。
昭和21年(創立60周年)頃より盛んになり、昭和23年に旧制中学校から高校になると一層盛んになりました。特に昭和23年には学区制がひかれ、第1回の高校卒業生と一緒にやむなく学校を去らねばならない1・2年生もこれに参加しました。最初は合崎橋で行っていましたが、それだけで飽き足らずに鍛冶橋まで練り歩き、そこで再度白線流しを行いました。そしてその後、肩を組んでジグザグ行進をしたり、輪を組んでストームなどを行いました。警察官が出て、自動車を一時止めるなどの交通規制まで行われました。しかしまだ行事としてまとまったものではなく、現在のような生徒会の行事といったようなも のではありませんでした。あくまで自主的に集まって即興的に行われたのです。
その後しばらくは盛んに行われましたが、国立大学の旧1期校の入試が3月3日に行われて卒業生が卒業証書授与式を欠席するということが増えるなどしたため、次第に活気がなくなっていきました。
3.発展期(昭和32年頃~現在)
昭和32年に、高山地区高校再配置計画の実施によって、岐阜県立斐太高等学校が再び普通科高校になると、白線流しも徐々に復活してきました。
昭和35年には、岐阜県立斐太高等学校第12回卒業生金子暁男氏が作詞し、同じく第13回卒業生阪巻正則氏が作曲した「送別歌」が生まれました。それまで何となく歌われてきた「蒙古放浪歌」は、時代の流れもあって歌われなくなりました。
昭和52年には創立90周年を記念して、「校歌」・「斐高行進曲」と共に、「巴城ヶ丘別離の歌」・ 「送別歌」の4曲からなるレコードが作製されました。そして白線流しはいつしか、生徒会の「卒業生を送る行事」として定着し、現在に至っています。
戦後世相が変わっていく中で、この白線流しは続けられました。
昭和24年以来男女共学になり、男子の白線と女子のネクタイとを一本に結んで、将来までの友情を誓って歌を歌いながら川面に流していくようになりました。このような旧制時代からの行事と、さらに男女の生徒が1本の白線とネクタイで結ばれるというロマンめいたこの行事は、マスコミに注目されることとなり、この10年ほどの間に新聞・テレビなどに報道され、だんだん全国に知られるようになってきました。昭和53年頃には、当時の流行歌手によって「白線流し」というレコードが発売されました。時々ラジオなどでそのメロディーが流されましたが、流行するまでには至りませんでした。
白線流しの様式は昭和40年頃より生徒会の行事となりました。そして場所は合崎橋の下流に卒業生と在校生が川をはさんで対面して行われました。昭和52年に現在の歩道橋が出来ました。そこで昭和52年3月からは合崎橋上流に場所を移し、歩道橋の上からの進行のもとに、生徒会長の挨拶・在校生の送別歌・卒業生の巴城ヶ丘別離の歌(ここで白線を流し始める)の順で行う形式になりました。
また平成8年にはフジテレビ系で『白線流し』という名の学園ドラマが放送され、話題をよびました。
(「斐太高校百年史」より抜粋)
白線流しの陰に
岐阜県高山市の県立斐太(ひだ)高校で卒業式 のあとに行われる『白線流し』で、学帽の白線などを学校の前の川に流しながらうたわれる歌の一つに『巴城(はじょう)ケ丘別離の歌』があります。
『友よ 試みに合崎橋畔に立ちて母校斐高を顧みよ・・・』 という惜別の辞に続き 『巴城 ケ丘に登り得て 春秋ここに三星霜・・・』と切々と吟ずる名曲です。作者不詳だったこともあり、長い間、 巣立ちの思いを託した歌と見られていました。(「巴ヶ丘別離の歌」を聴く)
ところが最近になって作者が明らかになり、戦に赴く友を送る歌であ ることが分かりました。作詞作曲し た名古屋市東区の会社役員河内敏明さん(71)は、敗戦の昭和20年旧制斐太中学の卒業です。『3年生のころから、友の何人もが予科練などに志願していきました。4年のとき、彼らは特別帰郷し、軍服姿で学校を訪ねてきました。そして去る際に、校門そばの合崎橋のたもとで直立不動の姿勢をとり、巴城(学舎)に敬礼するのです。その姿を教室の窓から眺め、強い感情に揺さぶられてこの詩を書き上げ、ギターで曲を付けました』
『私は、それを昔からの白線流しの歌だと偽って級友らに教え、卒業の日、橋 の上でうたわせました。 一部の友は私が作ったことを知っていましたが、黙ってました。その後もうたい継がれたのは、詩に戦争を思わせるものがなく、また、読み人知らずというロマンのせいでしょう』
河内さんの詩は、斐高が斐中、三星霜 が四星霜となっているほかは、今の歌詞 と変わりません。
卒業すると河内さんは進学のためすぐに上京、一夜で10万人が亡くなった3月10日の東京大空襲をはじめ、度重なる空襲に追われました。『生と死が隣り合わせの青春でした』 と河内さん。
あれから54年。今年も3月1日、白線とともに『別離の歌』が川面を流れます。
(中日新聞より 許可を得て掲載)
平和の鐘塔
「懐かしい三星霜 想い出さそう 鐘は鳴る」
現在、特別棟脇の一角に立つ「平和の鐘塔」。年一度、白線流しの開始の合図にのみ鳴らされるこの鐘塔の由来を知るものは殆どいません。しかしこの鐘塔こそは企画・資金募集等一切生徒会の手で、3年間にわたっての積み重ねの上に完成した文字通り生徒会活動の金字塔です。
「平和の鐘塔」建設の声は、昭和25年、朝鮮動乱を世界戦争への不気味な前兆と受け止めた生徒たちの中から、平和問題を真剣に考えていく象徴として作ろうとあがってきました。
しかし容易に全校生徒の支持は得られませんでした。昭和26年から議会や生徒集会、各ホームルームにおいて討議を加え、生徒会の一大事業として建設のための特別委員会が設置されました。
それ以後、 生徒会による募金活動は紆余曲折を経ました。生徒会は、有斐会や教職員、PTAなどにも働きかけて、ついに昭和27年3月、集まった3万6千円で平和の鐘を製作を開始したのです。
3本の脚に支えられた形の平和の塔は、当時の費用で23万円でした。9月の臨時議会で承認を受けて、積極的な募金活動が再開され、11月には目標額を達成しました。そして12月8日、3年越しの悲願が実って「平和の鐘塔」の除幕式が行われました。
約40年間もの間、斐高のみならず世界の平和を祈りながら立つ「平和の鐘塔」。この鐘塔建設の精神を汲み、それを後輩達に語り継いでゆくことは、斐高生一人ひとりの使命であると言えます。
(資料「斐太高校百年史」より)