人間としての責任
福井梨央
「君たちは次世代を担う大切な存在です。」
入学式、卒業式、講演会……。今まで幾度となくかけられてきたこの言葉に私が違和感を抱き始めたのは、いつからだろうか。今や将来、AIの性能が人類の知能を超える、と言われている時代。次世代を担うのはむしろAIなのではないか。AI以上に合理的かつ創造的な存在にならなければ、社会に必要とされないのだろうか。進路について考え始めるべきこの時期に、そんな考えが脳裏を這いずり回る。その時、この本は冬空に差す陽光のように私の視界を暖かく照らしてくれた。
舞台は人工親友、通称AFと呼ばれる人型ロボットが普及した近未来。しかし、そこは遊園地のように夢心地な場所ではない。「向上処置」という遺伝子操作を施された子供のみが将来を保証され、旧型のAFは用無しと言われんばかりに店の奥へ押しやられていく。本を開いた途端、残酷な格差社会の儚さが、文字を追う私の目を焼き焦がしていった。
そんな世界で、病弱な人間の女の子、ジョジーと一緒に暮らし始めるのが、太陽光をエネルギーにして動く有能なAF、クララだ。「いちばんの友達になるのはわたしの務めなので」とクララが言う通り、ジョジーを献身的に支えることへの使命感が、彼女のAFとしての生活を鮮やかに活気づけていく。世界の中心が寂れたAF販売店から十代の女の子との日常に移り変わったことへのクララの戸惑いと高揚感が、ページいっぱいに滲んだ。
ふと、本を支える自分の手に、パソコンの硬いキーボードの感触が温もりをもって蘇った。昨年の冬、情報科目の授業で、先生がAIによるチャットサービスである「チャットGPT」を紹介してくださったことを思い出す。瞬く間に画面上に浮かぶ「チャットGPT」からの返答に教室が興奮に包まれる中、私が最も衝撃を受けたのは、その画面上の文字を無心に目で追い続けている自分自身だった。巧みに質問に対する答えを返していく「チャットGPT」と、それを何も考えず一心不乱に凝視し続ける自分。どちらがより人間らしく、どちらがよりロボットらしいか。言うまでもなく分かるその答えを心の奥底に沈めたあの日の記憶を、ジョジーとクララの絆が淡く照らした。クララを人間の友達同然に扱うジョジーと、従順ながら責任感の強いクララの慎ましいやり取りは、人工親友という聞きなれない言葉さえ、水彩画のような優しさと麗らかさを秘めて心地よく頭に響かせてくれる。AFと人間の境界が曖昧な世界で強い関係性を築いていく二人の姿は、AIと人間の共存そのものだ。
物語の終盤、クララは自分がジョジーの人工親友としてではなく、万が一病弱なジョジーが亡くなった時、彼女のコピーとして生きるために買われたことを悟る。全てはジョジーへの愛ゆえに我を忘れた、ジョジーの母親が取り計らったことだったのだ。持ち前の高い観察力とコピー能力を活かし、衰弱していくジョジーと入れ替わるように変貌するクララと、それを指示し、静観するジョジーの母親。便利すぎるがゆえに先が見えない未来への不安、苛立ち、甘え……。発展する社会において今まで見て見ぬふりをしてきた渦巻く感情の数々を、登場人物を通して突き付けられるとともに、未来への警鐘が微かに聞こえてくる。
「特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。」
人間は優秀なAFでもコピーできないほど特別なものを持っていない、だからAFは完璧に人間になれると信じ切っていた人々に対し、クララはそう言った。クララという存在から透けて見える世界は残酷で愚かだ。しかし、その中で科学技術をも超えてAFの心を動かしたのは、人間の心だったのだ。
AIは人間を変え、人間はAIを変えていく。物語の中で人間とAFは共に悩み、喜び、前進していった。互いに決して完璧な存在ではないからこそ、自分も相手も尊重することで壁を乗り越えられるのは、AIも人間も同じだ。変革の時代を切り拓いていくための道が多様化してきている今、毎日様々なことに葛藤する中でおぼろげながらも掴めてきた自分の個性を胸に、未来を恐れず生きること。人間としての意思決定に責任を持つこと。それらが先行きの見えない道をAIと共に進むための糧になるのだろう。クララにとっての太陽のように。
「君たちは次世代を担う大切な存在です。」この本を読み終えた今、幾度となくかけられてきたこの言葉に対する誇らしさと緊張を湛えた温かい鼓動が、全身に響き渡っている。未来はAIを使う人間のあり方にかかっているという使命感を胸に、私は前を向いて生きる。前進という名のお日さまが、見据えた先を照らしてくれることを信じて。