多治見工業高等学校 同窓会
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卒業生の活躍
恩師は今
第一回目タイトル 経歴
なぜ写真集を出されたのですか。
脳腫瘍を患い、死ぬかもしれないという状況になり大手術をしまして、そういったことがきっかけで、この写真集を作りました。退院する早々に自分の記録を残したいという気持ちで作りました。
それに、まだまだ本を作りたいと思い、今作っているのは山岳写真や上海の有名な橋の写真集を作ろうと思っていますが、なにせお金のかかることですので、できるかどうかわかりません。
高校時代度のような生徒だったんでしょうか
バスケット部に少し所属していましたが、体が弱かったのですぐにやめてしまいました。結果的には卒業して1年半ぐらいに胃を2/3ほど切る大手術をしました。社会人になったときに大手術をして、今度は終わりかけに大手術をすることになるとは・・・
 昔から自然が好きでして、そのきっかけは当時の担任の荻山先生が事業をやめて木曽駒ヶ岳へ2,3人で登ったことを記憶しています。これがきっかけで登山をやり始めました。
関市に就職したのも関に山岳会があったからで、そこに入りたかったためですね。
当時岐阜の山岳会でヒマラヤの8000mを登る計画をしていたのですが、韓国の国際隊と同じ時期に重なってしまい申請が全然降りなかったためかなり待たされていましたので、1年間旅をして直接合流する予定で旅をしていましたが、結局申請が降りなかったため断念しました。しかし、それがきっかけで旅をするようになりました。
言葉はしゃべれるのですか?
片言の英語だけですよ。今思えばよく旅をできたと思います。横浜から船でソ連へ入りシベリア鉄道でハバロスクへ入って飛行機でモスクワに飛んでそれから列車バスを乗り継いで北アフリカを横断して、ギリシャへ入りそれからまた陸路でネパールからシンガポール、そこから船で香港に入って台湾へいき沖縄に着きました。まあ、基本的には関税で英語を使うことが多かったですね。ただ、国ごとに言葉か違いますので、その国の言葉を勉強しながらいきました。そこで感じたのは必要な言葉は5つ位なものなんですよ。
挨拶、これいくら、これください、ありがとう、ともう一つ位ですよ。例え、相手がサンキューといわれても、自分はその国の言葉でありがとうというと、非常にニコっとするというか、全然違うんですよね。
どこの国へ行くというのは、はじめから計画されていたのですか?それとも気まぐれだったんですか。
シルクロードをわたりたいというのが昔からの夢だったんですよ。なんかシルクロードというのは全然わからなかったのですけど、なんか砂漠というかそういったところが好きだったんですよ。