昭和7年に加納町から現在の北方町に移転しました。昭和7年から22年までの様子です。戦時中の時代があり、多くの生徒が戦死したそうです。また、食糧増産のためなどに開墾作業などを行い、3年間で学校へ登校したのは、3日だけであとは別の場所で働いていたという人もいたそうです。