昭和17、8年頃から「巴城ケ丘別離の歌」が歌われるようになりました。この曲は旧制岐阜県斐太中学校第57回卒業生の河内敏明氏(名古屋市在住)の作詞・作曲によるもので、当時は楽譜もなく、口伝で歌い継がれてきました。しかしこの頃でも全員が1本の白線を結ぶには至らず、親しいもの同士でそれぞれ結び合うような形でした。この頃はまだ「送別歌」というものはなく、在校生は「蒙古放浪歌」という大正時代の流行歌を歌って送りました。しかし楽譜などは見当たらず、節もまちまちで、当時の在校生が歌った節回しも部分的には旧制斐太中学校独自のものでした。
昭和21年(創立60周年)頃より盛んになり、昭和23年に旧制中学校から高校になると一層盛んになりました。特に昭和23年には学区制がひかれ、第1回の高校卒業生と一緒にやむなく学校を去らねばならない1・2年生もこれに参加しました。最初は合崎橋で行っていましたが、それだけで飽き足らずに鍛冶橋まで練り歩き、そこで再度白線流しを行いました。そしてその後、肩を組んでジグザグ行進をしたり、輪を組んでストームなどを行いました。警察官が出て、自動車を一時止めるなどの交通規制まで行われました。しかしまだ行事としてまとまったものではなく、現在のような生徒会の行事といったようなも のではありませんでした。あくまで自主的に集まって即興的に行われたのです。
その後しばらくは盛んに行われましたが、国立大学の旧1期校の入試が3月3日に行われて卒業生が卒業証書授与式を欠席するということが増えるなどしたため、次第に活気がなくなっていきました。
昭和32年に、高山地区高校再配置計画の実施によって、岐阜県立斐太高等学校が再び普通科高校になると、白線流しも徐々に復活してきました。
昭和35年には、岐阜県立斐太高等学校第12回卒業生金子暁男氏が作詞し、同じく第13回卒業生阪巻正則氏が作曲した「送別歌」が生まれました。それまで何となく歌われてきた「蒙古放浪歌」は、時代の流れもあって歌われなくなりました。
昭和52年には創立90周年を記念して、「校歌」・「斐高行進曲」と共に、「巴城ヶ丘別離の歌」・ 「送別歌」の4曲からなるレコードが作製されました。そして白線流しはいつしか、生徒会の「卒業生を送る行事」として定着し、現在に至っています。
戦後世相が変わっていく中で、この白線流しは続けられました。
昭和24年以来男女共学になり、男子の白線と女子のネクタイとを一本に結んで、将来までの友情を誓って歌を歌いながら川面に流していくようになりました。このような旧制時代からの行事と、さらに男女の生徒が1本の白線とネクタイで結ばれるというロマンめいたこの行事は、マスコミに注目されることとなり、この10年ほどの間に新聞・テレビなどに報道され、だんだん全国に知られるようになってきました。昭和53年頃には、当時の流行歌手によって「白線流し」というレコードが発売されました。時々ラジオなどでそのメロディーが流されましたが、流行するまでには至りませんでした。
白線流しの様式は昭和40年頃より生徒会の行事となりました。そして場所は合崎橋の下流に卒業生と在校生が川をはさんで対面して行われました。昭和52年に現在の歩道橋が出来ました。そこで昭和52年3月からは合崎橋上流に場所を移し、歩道橋の上からの進行のもとに、生徒会長の挨拶・在校生の送別歌・卒業生の巴城ヶ丘別離の歌(ここで白線を流し始める)の順で行う形式になりました。
また平成8年にはフジテレビ系で『白線流し』という名の学園ドラマが放送され、話題をよびました。
(「斐太高校百年史」より抜粋)