斐太高校に関係した名称について
![]() 【飛騨国名由来の竜馬石---大野郡清見村】 伝説によると、神代の昔、竜馬が天から降りて石になったとされます。 |
「斐太」という校名「飛騨」と一般に表すようになったのは,和銅年間以降のことでしょうか。「続日本紀」大宝2年(702年)の頃には「飛騨国献神馬,大赦天下・・・」とあり,朝廷は之を大瑞としました。和銅6年(713年)行政地名表記の改正により,好き字をつけ,以後「飛騨」に一定したと言われます。 なお「日本書紀」では「飛騨」,それ以前の表記として「万葉集」では「斐太」,国造本紀・賦役令では「斐陀」とあります。 本校の校名は「万葉集」の「斐太」に拠るものです。
|
「有斐」という文字岐阜県立斐太高等学校の同窓会を有斐会といいます。 斐太中学同窓会の発行による「螢窓餘影」第1号が発刊されたのは明治29年ですが、34年になると「有斐」と改められ、発行者も前年に発足した岐阜県斐太中学校友会(職員・生徒・同窓生有志で組織した同窓会に変わる組織で、主に部活動がその中心的活動)となりました。有斐は当時の漢文の山本秀雄先生の命名であり詩経から引用されたもののようです。
◎有斐=「斐」を『詩経』には「匪」に作る。
【原文】 『大學經一章 傳之三章』より
【訳】
|
![]() |
| 【高山市内からの城山】 かつてはこの付近に校舎がありました。城山の山上には、飛騨が天領になるまでの江戸時代初期、3階建て望楼(天主)をいただく高山城がありました。高山城は、ときの飛騨領主、金森長近が天正16年(1588)から16年かけて築城したお城です。館と天主が連結した典型的な平山城で、日本で5つとないほど見事であったといいます。 |
巴城ヶ丘とはこの言葉の由来は,本校の草創期までさかのぼります。創立当初の校舎は現在の城山にありましたが,この城山を「高くそそり立つ山」になぞらえて「巴山」と呼ぶ,風流文人の呼称がありました。 明治31年に現在地に校舎が移転してからも,創立時の気概を継承する意識から現在の裏山を「巴城ヶ丘」と呼ぶようになりました(昭和10年頃)。本来城山の別称であったものが,校舎の移転にともなってその名前まで移転させて使用したのです。以来,「巴城ヶ丘」「巴陵」という言葉を,この校地一帯に使用するようになりました。 |


